令和4年度 第2号
沖縄が返還から50周年を迎えます 校長 住吉 豊
最近ニュースで取り上げられるのを見て、ああ今年で返還から50年という長い年月が経ったのだなと思いました。今の沖縄県は、昔琉球(りゅうきゅう)と呼ばれていました。1945年(昭和20年)に日本が連合国に降伏して、その後アメリカの統治下(とうちか)におかれました。1972年(昭和47年)の5月15日にアメリカから返還されるまで、実に27年間の長きにわたりアメリカの統治が続きました。そのため、日本国の一部ではありましたが本土との行き来きにはパスポートが必要だったり、通貨はアメリカドルであったりしました。沖縄以外にも、トカラ列島や奄美諸島、伊豆諸島は数カ月から7年。小笠原諸島は1968年までの23年間、沖縄同様にアメリカの統治下にあったことをご存じの方は少ないと思います。
私は返還された翌年の1973年、小学校5年生になった時に大学を卒業したばかりの年の離れた一番上の兄と沖縄本島に行きました。秋田から寝台列車に乗って大阪に出て、初めて飛行機に乗るちょっと怖い気持ちと、南沙織の出身の沖縄を訪れるわくわくした気持ちがありました。
振り返るとあまりに昔(ほぼ半世紀前)のことで、記憶があいまいなところもあるのですが、強く印象に残っているのは、沖縄の那覇空港に降り立った時に、近くにミサイルが仰々しく空を仰いで並んでいたこと。嘉手納(かでな)基地の果てしなく続くと思われた長いフェンスの柵の内側に、さび付いた上陸用舟艇が打ち捨てられていたこと。戦車も積める航空機と言われた巨大なギャラクシー輸送機を見たことです。子供心になんか秋田の田舎で過ごしている日常とは違うにおいを感じた気がします。今思えば、沖縄返還当時はまだベトナム戦争が続いており、ここからもベトナムに向けてアメリカ軍の飛行機が飛んでいたのでしょう。その風景を垣間(かいま)見た気がします。今でこそ沖縄というと、リゾート海岸や美ら海水族館を思い浮かべますが、沖縄にはこのような基地の側面があることはご存じのとおりです。
そのあと、当時は第二次世界大戦で焼け落ち、城跡の石垣しかなかった首里城を見学し、守礼の門で写真を撮ったりもしました。450年に渡って栄華を極めた琉球王国の象徴でもあるこの首里城がその後再建されたものの、現在は火災で無くなってしまったのは本当に残念です。(今再建に向けて取り組んでいるそうです)
再建当時の写真
沖縄では、上陸した連合軍と日本軍が戦火を交え、大勢の学生や市民の方も巻き込まれて亡くなりました。そのような激戦の地にあるひめゆりの塔や摩文仁(まぶに)の丘も見学しました。訪れた当時は、遺構としては質素なものでした。兄は色々解説をしてくれました。
沖縄が基地のある町として抱えていた問題は返還前から色々ありました。それでも、本土復帰の翌年で、街には人々のエネルギーが満ちていたかのように思います。当時まだ、アメリカの雰囲気が残っていたストリートを右側通行で走る車。ガソリンスタンドのようなハンバーガーショップで、生まれて初めてハンバーガーを食べた時の感動。畑でかじったサトウキビの何とも言えない素朴(そぼく)な甘さ。この汁を精製して砂糖ができるということもその時に初めて知りました。あれから50年間私は沖縄を訪ねたことはありませんが、もう一度あの当時兄と一緒に旅した沖縄を訪ね、昔訪れた場所を辿(たど)ってみたいと思います。
更新日:2022年05月13日 11:05:59